誰もが携帯電話ジャンキー
携帯電話が手元にないと、ソワソワして、なにか落ち着かない気分になってしまいがちです。
ガラケーかスマフォかを問わず、無意識に携帯電話の画面を見てしまいます。
他の人と話しながら、つい横目で携帯を触ってしまうことも、珍しくありません。
海外ビジネスの場でも、iPhoneやブラックベリーをテーブルに置いたまま、あるいは握りしめたまま、ミーティングをやるという光景が当たり前になっていて、それがマナー違反だという意識もあまりないようです。
すっかり携帯電話「中毒」な私たちは、携帯電話のない生活が可能かどうかとは、もはや考えなくなっています。
携帯電話なしで生活できる?
アメリカのある起業家が、携帯電話を持たずに、1ヶ月間暮らしたときのことを、ブログに書いていました。
代わりにiPad miniを持ち歩いて、GoogleハングアウトやSkype、メッセンジャーアプリを使っていたようで、ネット接続自体を完全に絶っていたわけではないようですが。
それでも、携帯電話を持たずに生活するという体験から、4つの学びが得られたと言っています。
- なにも考えずに惰性で電話を使うと、人間らしさは奪われる
- バイブレーション機能は、心の明晰さを損なわせる
- 携帯で撮った写真は5%しか使わないし、写真を撮るために最高の瞬間を見逃している
- 携帯電話との「別離の痛み」は、バカバカしい(そして深刻)
惰性の怖さ
私たちは、明らかな目的が無くても携帯電話を触ってしまいがちです。
目の前に他の人がいても、つい携帯電話に目が行くというのは、目の前の人よりも、電話の着信履歴、はたまたフェイスブックやツイッター、新着メールが大事という意識の現れです。
「ちょっと失礼」と断りを入れることもなく、当たり前のように携帯を触りだす人も、珍しくなくなってきました。
もはや、電話を使うというより、電話に使われているというのが実態かもしれません。
モノに使われることへの疑問
アメリカの起業家の実例は、「携帯電話が無くても仕事ができる」ということの証明にはなっていません。
ネット接続は維持したままで、電話(通話)の代替手段も確保していたのですから、「ネット接続さえ確保できれば、電話という通信手段に頼る必要はない」ということを検証したに過ぎません。
ただ、「携帯電話」という機器を、いついかなるときも常に持ち歩き、あらゆる場面で使う必要があるのか?という問題提起にはなっています。
ちっぽけな電子機器に使われるような状況が、はたして私たちが望んでいることなのか?という、人間性を取り戻すための問題提起に。
「いま、この瞬間に、携帯電話を握りしめている必要はあるのか?」という問いを、自分自身に投げかけられるほどには「正気」でありたいですね。
神戸を拠点に活動するビジネスコンサルタント。アメリカでの7年間の勤務経験を含め、これまで色々な業界で、30を超える国・地域でプロジェクトに関わる。遊びで始めたInstagramへの投稿がきっかけになり、イラストレーター、グラフィックデザイナーとしても活動。