父親の命日に、まだ「父親」ではない僕が思うこと

発想

 

今日、9月27日は、僕の父親の命日だ。

 

余命いくばくもないことが分かっていながら、

仕事から離れることができず、

7年前の今日、オフィスで、親戚から臨終の知らせを受けた。

死に目に会えなかったことは、

いまでも悔やんでいる。

 

死の2ヶ月前、

ガンが父親の全身に転移していることが分かったときには、

父親はもう、話ができない状態だった。

 

父親と最後に話したのは、その年の5月。

当時、介護施設に入所していた父親は、

とても具合が悪そうだった。

 

会話の糸口をつかめないまま、

あれこれと、とりとめのない話をした後で、

当時勤めていた外資系会社の名刺を父親に渡し、

「いま、アメリカの会社で働いてんねん」と僕。

 

しばらく無言で名刺を眺めていた父親。

名刺を僕に返して、ぽつりと一言。

 

「お前はもう、自分の好きなことをやって生きていけばいい」

 

若いときの怪我の後遺症で、やりたいことも満足にできず、

事業にも失敗し、借金を抱えて、

家族の生活費を得るための仕事を転々としていた父親。

 

後遺症が進んだ最後の数年間は、

半身不随になって車イスが欠かせなくなり、

病院と介護施設を行ったり来たり。

 

そんな父親が発した一言は、

仕事のストレスでココロを病みそうになっていた、

僕の内面を見透かしたものだった。

 

「お前はもう、自分の好きなことをやって生きていけばいい」

 

お前は、自分が本当にやりたいことなんて、

まだ見つけてないんだろう?

本当にやりたいことを考えざるをえない状況に、

自分を追い込んでいないんだろう?

 

もっと高い給料を得るためのジョブ・ホッピングを繰り返していた

そのころの僕を揶揄するようなトーンも感じた。

 

いや、僕が勝手にそう捉えたんだろう。

いかにラクをして高い給料をもらうかということが

当時の僕にとって大事な価値観だったから。

 

父親の前で胸を張って

「これが自分のやりたいことなんだ」

とは、とうてい言えない仕事だったから。

 

「お前はもう、自分の好きなことをやって生きていけばいい」

 

振り返れば、僕の父親は、

僕にああしろこうしろと指図してきたことは

ほとんどない。

 

母親は、息子をちゃんとした人間に育てないといけないという

強い使命感を持っていたから、

それはそれは、口うるさかった。

 

「勉強しなさい!」というのは母親の役割だったし、

僕がなにか悪さをして、母親に叱られているときも、

父親は、すこし引いたところから、

静かに見ているだけだった。

 

きっと、僕の父親は、

僕のことを「自分の所有物」だとは、

考えていなかったのだろう。

 

いずれ、自分を越えていく存在。

いずれ、自分から巣立っていく存在。

自分の思うどおりにはならないし、

するべきでもない。

あらゆることを、本人自らが、

ひとつひとつ学び取っていくべき。

 

待望の男の子を授かったときに、

そういう「覚悟」を決めていたのだと思う。

 

そんな父親も、

自分に襲いかかっている病魔を悟って、

残された時間が少ないことに気づいたとき・・・

 

虚栄心にとらわれている息子の状態を見抜いて、

これだけは言い遺しておかなければという

使命感に駆られたのだろう。

 

「お前はもう、自分の好きなことをやって生きていけばいい」

 

言われた当時は、その真意をはかりかねたけど、

いまは、はっきりと分かる。

 

人生は、短いぞ。

つまらないことに、とらわれるな。

本当に大切なものを、見失うな。

 

波乱続きの人生を送った父親から、

最後に渡された、重いバトン。

 

最近ようやく、手に馴染んできた感じがする。

 

神戸を拠点に活動するビジネスコンサルタント。アメリカでの7年間の勤務経験を含め、これまで色々な業界で、30を超える国・地域でプロジェクトに関わる。遊びで始めたInstagramへの投稿がきっかけになり、イラストレーター、グラフィックデザイナーとしても活動。